2005年8月1日(月) 晴れ
くるり。あるいはこうして戦争ってのは始まるんだねぇ・・・
ロックのライブにて。演者との距離が20メートル程。『かぶりつき』とはいかないまでも、かなり近い。表情が見える位である。その間には警備の人間がいる。それはいい。危険な行為がないように、それを抑える人間を配置する。まっとうなことだ。だが、その人物が太った外人というのは如何なものか。
てめーどけよ、マジで!邪魔なんだよ、態度でけーんだよ!これ見よがしに立ちどまんじゃねーよ、デブがぁ!雇われ警備員だろーがぁてめーは!偉くねぇんだよタコ!ボーカルの前で腕組んで仁王立ちするなぁ、見えねぇ!くるくるタオルを振り回して歩くなぁ!曲のフィニッシュで欠伸をするなぁ!この日一番楽しみにしてたバンドなんだよぉ頼むよぉ。デブ同士で耳打ちしてニヤニヤするな、壁か!この毛唐がぁ!肉食い過ぎなんだよ。トゥファット!トゥファット!!お前らなんてママの所に行ってヌガーバーでも・・・。 まぁ、愛も平和もありゃしねぇ・・・。 2005年8月2日(火) 晴れ 100S。もしくは見ちゃいました一義!!きゃー
ライブに行って、記念に、そのアーティストのTシャツを買う。そんなミーハーなことができますか。そんなんじゃないんです。
いいですか、およそ近代以降、表現されたものには、その製作者と鑑賞者の間に作品というものが存在します。映画で言えば上映されるフィルムだし、小説で言えば、書かれた文字です。ところが、ライブという場においてはそのような区別が曖昧になる。例えば、今日のこのライブと同じ曲を、同じ演者がやったとしても、自宅に呼んで一人で見たらどうですか。全然楽しくない。キタキタ感がない。むしろ、怖いですよそれは。つまり、ライブというものは製作者、作品、鑑賞者が一体であるわけで、鑑賞者だって作品の構成に参加しているわけで、そういう意味のTシャツであって・・・。 あ、売り切れ。いや、別に悔しくなんかないですよ。ミーハーじゃないんだから。悔しくなんか、悔しくなんかないやい・・・。 2005年8月3日(水) 晴れ GONTITI。夕凪のダンス。ギター、弾きてー。
素敵な音楽と楽しいおしゃべり。
例えばホテルのディナーショーの客引き文句。わたくし、これまではこういった言葉をなめておりました。でももしそれに、本気で人生の時間をつぎ込んだらどうなるか。そういうことが分かっていなかったのです。 時は夕暮れ。今にも降り出しそうな曇天の下始まった野外ライブは、スチールギター2本とパーカッション、インストのみという構成にも関わらず、出だしの一曲でほとんどの観客を立たせます。続いて繰り出される「老後は喫茶店をやる」トークで、ロックを聴きに来ていたはずの少年少女の心をばっちりつかむ。おまけに次々と切れ目なく流される曲は、故中島らも氏が『天上の調べ』と形容する通りの美しさであります。 これが全て、隣の会場から漏れてくるロックの爆音の中で行われる。プロってすげー。 もちろん、わたくしもノリノリ手拍子。何事も、やらずに否で通すのはまずいわけで。 2005年8月4日(木) 晴れ Beck、いいね
野外の巨大なステージでは、アコースティックギターを抱えた男が一人、歌っている。
僕は小降りになった雨の中、泥だらけの道を歩きながら、それまで見ていたライブの素晴らしさを、芝生にレジャーシートを敷いて待っているであろう友人に、いかに伝えるべきかを考えている。 ステージ上の男の後ろでは数人の人間が、木のテーブルを囲んで食事をしている。硬い、しかし優しい声の質が、僕の足を止める。 食事をしていた人間の立てる食器の音が、男の爪弾くギターに絡まり、いつの間にかパーカッションと化す。しかし、そういった演出を抜きにして、男の音楽には聞き入るべき何かがある。ゆっくりとした調べ。少しアイリッシュな音色。有体に言えばぬくもりがあるその音は、雨の、夜の、木々に囲まれたこの場に、とてもよく合っている。 「いいね」辿り着いた僕が言うと、「いいね」ニヤッっと笑って、友人が応える。 2005年8月5日(金) 晴れ ただいま、おかえり
帰ってきてまずやらなければならなかったのは、雨と泥で汚れた服を洗うことだった。
ぐるぐる回る乾燥機を見て考えた。こうやって見ると、俺の服はなんて茶色系なんだ。 目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうな頭を振りつつ、次は自分の身体を洗わなければならない。雨でじわじわと、芯まで冷やされていたので、ゆっくり湯船に浸かりたかった。しかし近所の風呂屋は、つぶれていた。 いつの間にかつぶれていた。 びっくりするくらい広い更地の前で、お風呂セット片手の俺は呆然としていた。少し悲しかった。 しょうがないので家に戻ると、玄関先には、先日道路がアスファルトに舗装されてからこの方見なかったヌシ、ことデカ蛙が鎮座ましましていた。あらぬ中空の一点を見つめながらうずくまっている姿を見て、ほっとした。 それからともかく、熱いシャワーを浴びた。 2005年8月6日(土) 晴れ もちろん誤植かとは思われますが、進化だって遺伝子誤植のたまもので、多様性はおもしろさの一因であるが故。
ファッション誌(『古着MODESTYLE』学研)を読んでます。しかし、こんなにおもしろい種類の本を今まで読んでいなかったのは不覚。だってこれ程たくさんの人間が写真付きで載っている本って、なかなかない。
例えば「スタイリングのテーマは何ですか?」という質問。ゆるさ、夏、UKロックといった人々に混じって、「寝起きのままでウツです」というのは須田舞未サン。確かに、写真はウツっぽい。ウツっぽいけど、それはテーマか? 後、ありそうでなかった線は森田学クン答える所の「若武者」。写真を見る限りどこら辺が若武者なのかは分かりかねるけれども、個人的にツボ。ネクタイがかっちょよい。 んで、その隣が水兵クン。首に巻いたスカーフといい、確かに水兵っぽいのだけれども、スタイリングのテーマは「おしゃれな水平さん」。でかい・・・。いきなり地球規模に。 って、興味が別次元に移ってますが・・・。 2005年8月7日(日) 晴れ 原点回帰。じゃうるふ。
小学生のころ、一つ年下のアサトというちびっこい奴と仲良くしていた。
ある日、そのアサトの家に遊びに行った時のこと。『麦コーラ』という名前の飲み物が、おやつに出された。まだ「ペプシ」さえも知らなかった我々は騒然となった。麦コーラ。なんて素敵にダサいネーミングかと・・・。 だが驚くべきなのは名前ではなかった。一口飲んだその味は、確かに麦茶にコーラを入れた味だった。それはうまいまずいといった判定をする以前に、あまりに未知な味だった。未知過ぎて、誰も何も反応ができなかった。 しかし、アサトは違った。アサトは突然すっくと立ち上がると、片手に持った麦コーラの缶を指差しながら、半笑いの上目遣いで「むっぎ、こーら?」と言ったのだ。 それを見た瞬間、まるで決壊時のダムの如く我々の中に溜まっていた何かが放出された。我々は笑った。笑い続けた。1時間・・・。 今でも時々、あのポーズを思い出す。 2005年8月8日(月) 晴れ/くもり ありゃ、売れるわな
非常に悩んでいることがあった。
いわゆるデジタルミュージックプレイヤーが欲しかったのだ。HDDなどに曲を入れて携帯できる、あれである。NO MUSIC,NO LIFEな身としてはその利便性は垂涎の的だが、しかし考えてみると外に出て聞く場面が思い浮かばない。 通常は電車の中などで聞くのだろうが、チャリンコを使うようになってから、それほど電車にも乗らなくなった。では、チャリンコに乗りながら聞けばよさそうだが、にわかチャリンカーにしては結構車道のぎりぎりを攻めてみたりするので、脳内シュミレーションの結果、死ぬ。チャリンコを運転する際は、音というのは意外に重要な要素なようだ。 NO MUSIC,NO LIFE。 NO LIFE,NO MUSIC。 似て非なる響きである。やはり切実度から言えば、下だろうなという結論に達した。 ところで、衆議院が解散するようですな。 2005年8月9日(火) 晴れ 水族館が好きだーーーーー!!!!今日の叫び
年若い友人と、高校野球を見ていた。
10回。1、2塁。同点。1アウトの場面で、スクイズを失敗。3振の上2塁も刺され併殺。バッターは悔しそうにボックスを去る。 「ありゃーやっちゃたね」 「ねー。俺がチームメイトだったらボコすね」 ボコす? うだる暑さの中床にへばりついて見ていたテレビより、何気なく飛び出した友人の言葉に俄然興味が沸いて、身を起こしてしまった。 「『ボコす』って、『ボコる』ってこと?」 と、野球の行く末に興味津々の友人を無理矢理こっちに向けて問い質していくと、どうやらそうらしい。しかし、微妙に意味が違う。 「なんか、ボコるっていうと、本気でボコってる感じじゃん。そうじゃなくて、ボコす」 などと、禅問答の如くのたまう。つまり程度の問題か?それほど本気でなくボコボコにするのが、ボコす。完全に初耳である。 若さか?これが若さって奴なのかぁ!? 2005年8月10日(水) くもり/雨 ちと、挑戦です
海に行った帰りのことだった。
友人と別れて、電車に乗った。始発駅からだったため、運良く、扉の脇の、座席と壁が角になっている所に場所を取ることができた。ここだと、壁に寄りかかられる。 文庫本を取り出して読もうとしたが、さんざん遊んだ疲れのため、同じ箇所を二度、三度と読んでしまう。泳いだ後特有の、全身の筋肉が心地よく疲れた感覚がある。諦めて文庫本はしまった。 外を見ていると、目蓋が下りてくる。やがて眼前に、今日見た海底の風景が展開される。 今日は浜辺ではなく、少し沖合いに出て潜った。シュノーケルをつけて覗き込むと自分の下に5メートル程の空間があるというのは、不思議な感覚だ。砂と岩の海底が見える。そうやって、しばらく漂いながら海底を見ていた光景が浮かび上がってきたのだが、その波に揺られる感覚があまりに真に迫っていた。 一瞬、海に引き込まれたかのようだった。 2005年8月11日(木) 晴れ/くもり 焼肉。その祝祭的性格と、閉めはバッコーン。
今日、肉を焼いた。ジュウジュウと、心行くまで肉を焼いた。
タレを満たした壷に漬け込んであるカルビは、まるで一枚の座布団の如くだった。焼いた後にハサミで切らねばならないのだった。パツンパツンとハサミを入れて、細かく分けた一片を口に入れる。馬鹿な。ただの焼いた肉なのに。ただの焼いた肉なのに・・・。 今日、冷麺を食べた。ツルツルと、心行くまで冷麺を食べた。 一個目は普通の冷麺を。細身の麺と澄んだツユ。焼き豚、パイン。そして卵。簡素な構成で攻めてくるその麺は、肉の脂分をさっぱりと洗い流す。二個目は辛目の五目冷麺を。つけ麺のように、別の容器のツユにつけて食べる。本体の麺は、唐辛子色に染まっている。ピリリと辛いアクセントが、食欲を増進させる。ツルツル。ツルツルツルツル・・・。 カルビ祭り。数週間前から密かに名前まで付けて待ち望んでいた夜、更けゆく。 2005年8月12日(金) くもり/雨、雨、大雨、稲光 寝ろ。オレ。
最近、祝ってばっかりだ。
それは結婚だったり、結婚だったり、あるいは結婚だったりする。もしくは結婚とか。 みんな、遠くに行っちゃうんだね・・・。 いや、待てぃ!祝ってばかりではいられない。俺だって祝われることくらいある! 念願だった、島本和彦著『吼えろペン(小学館GXコミック)』全13巻コンプリートに着手。1〜5巻、8〜12巻までは入手完了。全入手巻、3回は読み返し完了。 見ろ、この至高の赤い背表紙を!この熱い科白の数々を!!トイレに座り込む時のお供に、もはや必須!朝に読めば、一日ハイテンション。昼に読めば、夏の暑さも吹き飛び、夜に読めばその日の疲れ、溶解す!これぞまさしく、ザ・バイブル!!「思い出したよ、何かを!何かを、思い出したよ!!」って何をだぁぁぁぁ!!何回読んでも、同じツッコミを入れたくなるって、すげー。 あれ?祝・・・って、え?あれ? 2005年7月13日(土) くもり 朝の数学講義
いつも忘れてしまいがちなくせに、決して忘れてはいけないのは、行動も含めた表現物というものは、すべからく心に由来しなければならないということだ。
一本の線で描かれた、おっぱいを思い浮かべてみよう。乳首はなしだ。 下を向いた形、横から見た断面図だ。左側から緩やかに弧を描いた線は、図の下方で逆さに頂点を結び、同じ曲線を描いて右辺に消える。完璧だ。さて、その完璧な図形に、横切るような形で、どこでもいい、直線を引いてみよう。するとそのおっぱい断面図に、計測可能な面ができるはずだ。 それを測るために必要なのが、積分なんだ。 y=3x(2)+2x+3は、y=x(3)+x(2)+3xに。巨乳でも、貧乳でも構わない。好きなようにおっぱいを思い浮かべるんだ。僕らはそれを測る事ができる。 もう一度言う。そのおっぱいの断面図の面積を測るのに必要なのは、積分なんだ。 以上の文章において、括弧内の数値はxの乗数を表しています。また、数式に間違いがある場合、ご指摘頂けると大変ありがたいです。自信ねーもんなぁ・・・。 2005年8月15日(月) 晴れ/くもり/雨雨雨雨/そして晴れ 朝の智恵子抄
降りしきる雨の中、屋上のビアガーデンのお店はシャッターを閉め始めた。店を閉じようというのではない。横殴りの雨が、そうでもしないと防げないからだ。
僕と友人の二人は、そんな光景を並んで眺めながら、時折稲光に照らされる夜空を肴に、酒を呑んでいる。始めは向かい合っていたのだが、天幕の外から吹き込んでくる雨で背中が濡れる程になり、急遽席を変えた。振ってくる雨は、もう雨なんて呼べないような量になり、すでに見ているだけでおもしろい。 しかしそんな中、僕と友人は、昔の共通の知り合いの女の子にどっちが電話をかけるかで駆け引きをしていた。二人ともその娘には、もう6年も会っていない。 半分シャッターを閉めた店の中からは、室内席にいたネパール系の人達が、大盛り上がりしているのが聞こえていた。 やがて雨は、嘘のように上がった。結局電話はかけなかった。 2005年8月17日(水) 晴れ/くもり 足掻いて、後寝るのが吉
まったく。あってしまうものというものは厄介限りないわけで、今はまだないものは、ないだけに用意もできようが、あってしまうということはすでにあるわけだからいかんともしがたく、まぁ、心なんてのはその最たるもので、時によりけり厄介帝王である。
後ろは除くが右も左も正面も女の子に囲まれているという状況にあったとしても、心、方寸、どんより曇っていればしがない己はただそれに従うのみで、心意ともども落ち込んでいってしまうのが腹立たしい。しかも阿呆な己が話題の中心であるのがさらに疎ましく、普段なら踊り狂って喜んでいるはずなのに、何故か下がる心意気は不思議ですらある。 「え、dai君ちって、テレビないの!?布団も!?」 「テレビはいらないけどねぇ。まぁ布団は、キャンプ用のマットで寝てるけど・・・。」 と、ネタを振られても心気上がらず、気分、珍獣檻の中の如し。方寸、喝入れるべし。 2005年8月19日(金) 晴れ なまこを初めて食べるスピリットinイギリス
オンライン百科事典、Wikipediaを見ていると、本当に飽きない。まったく、何て物を作ってくれちゃったんだと思う。
例えば、哲学関係で攻めてみよう。 『デカルト』の項目で検索しみると、「フランス生まれの哲学者・数学者・傭兵」と、のっけから飛ばしてくれる。傭兵。そう、デカルトが実は傭兵をやっていたのは、後述の『生涯』を読めば分かることだが、それにしても、この言葉の並びはすごい。哲学者・数学者、そして傭兵。どんな人かと。 哲学関係の人物は、さすがに極端な人が多く、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」のヴィトゲンシュタインは自分の試験官の肩を叩いて「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」と言ったりしている。偉いよ、あんた。あと、ロック。「肉を冬場、零下でどれくらい保存できるかの実験をして、元来腐りかけていた肉を食して亡くなった」じゃない。 2005年8月19日(金) 晴れ 泣き特集、いえーい
宮沢章夫は映画「フィールドオブドリームス」の演出では涙を流さないが、父親が娘に、野手の動きについて教える台詞を聞くともう駄目だそうである。なんだかよく分かる。
先日来「泣ける2ちゃんねる」という本を友人から借り受けて読んでいるが、明らかに不幸度では他に劣る「別れた恋人に10年前に教えてもらったあやとりを、手が覚えていた」という話しが、私には一番ジンとくる。 小説の「涙」の記述で、私が最も印象深かったは、「蓬莱学園の魔獣」でのテオドール・ザールウイッツの話す昔語りと早良悠季の涙だ。みなが笑う小噺にただ一人「何故」と問う幼いテオドールの姿と、「出番を心得た老練な役者のように」という早良悠季の涙の比喩は、あの物語でしか語りえない「何か」だ。わけのわからない勢いでもっていかれる。 例えば死は、それが近しい人ならばなおのこと涙をもたらすに違いない。しかし、そんな涙はいらないものだ。そんな涙はいらない。 2005年8月21日(日) 晴れ 青空マル秘課外授業。いけない初体験☆
首筋を撫で上げる。彼女はおとなしく、されるがままになっている。
「空か。いい名前だね」 口を寄せ、彼女の耳元でそうささやく。微かに汗の臭いを感じる。彼女はやはり何も言わず、鼻先を私の肩口に押し当てるようにして、深い呼吸を何度か繰り返した。小さく震えているような体の動きと体温を感じる。思わず手を伸ばし、癖のある髪を梳いた。 「じゃぁ、いくよ」 やがて私は静かに彼女の上にまたがった。 「大丈夫だよ。心配しなくていい」 じっと上目遣いに見つめる目の中に戸惑いの色を感じて、私はもう一度ささやいた。 とは言え、彼女はもう私の意のままだ。右を向けといえば右を向き、左を向けと言えば左を向く。興奮するなという方がおかしい。 合図を送ると彼女はゆっくりと動き出した。 そして草を喰んだ。 ちくしょー可愛い馬だぜ、空! 2005年8月22日(月) 晴れ ス○マスイッチ・・・
気持ちスイッチの話しをしたい。
脳が神経伝達物質を出し惜しみしているんじゃないかってくらい、ロー。人と会ったりするのが面倒くさく、頭の回転極めてわろし。意欲全方位に対して低下中って時にだって、些事雑事が付きまとうのはこれ、人の世の常であるわけだけれども、そんなわけで死んだ魚の目をしながらも私は人と話し合わなければならないことがあったので、話しかけた。 「あの、ちょっと話したいことが・・・」 「何?愛の告白?」 即答で返ってきた答えは、思わず簀巻きにして沈めようかと決心したくなるような、クラシカルな一撃。しかし、タイミングよく繰り出されたそれは、むしろ一周回って爽快な程であり、つまりこれが気持ちスイッチ。 スイッチが入ると、頭の中の小人さんがやっと働き出して、ドーパミンやらアドレナリンやらを頭ボイラーにくべ始めるわけです。 結果、感謝の念をこめて後頭部を一はたき。 2005年8月24日(水) くもり/雨 ビールはうまいが
集中させれば、意外なことができるんじゃないか!?黒紙に、虫眼鏡で太陽光線を集中させたらどうなる。燃える。集中ってすごい。
さぁ、他にどんな集中があるか考えてみよう。例えば2万人の観客を集めたサッカースタジアム。ホームチームは決め手に欠け、中盤の奪い合いばかりで煮え切らない中ビールだけが進む前半終了直後なんてどうだろう? 人はトイレに集中する。 そうだ、そんな時人はトイレに集中する。野球の地元チーム攻撃回裏もすごいけど、サッカーの場合はもっとすごい。ここしか休憩時間がないからね。人人人、人ばかり。こんなに混んでいるトイレって、あまりないんじゃないだろうか。さぁもう少し集中について考えを進めてみよう。ポクポクポクチーン! そんなに集まったら、水力発電にして電気が取れるんじゃないのか!? ってね、ぎりぎりな状態で並びながら考えてたですよ・・・。味の素スタジアム。 2005年8月26日(金) 晴れ 喫茶店フィーバー
エディーマフィーの映画は吹き替えで見なければ意味がないというのは、仲間内では定説となっているのだが、つまりそれは洋画というものが言語と言語、ひいては文化と文化の接点に位置するものだからであって、映画のパンフレットでも同じことが言える。
スターウォーズを見た。エピソード3。例によってパンフレットを買い求めていた。 『師匠は自由奔放だし、弟子は無鉄砲な反逆児』ぱらぱらやっていると「オビ・ワン・ケノービ」の項に目が留まる。知っての通り「3」はオビ・ワンの弟子アナキンがいかに暗黒面に堕ちるかという話しであり、重い。しかしパンフレットのこの言はどうだろう。「無鉄砲な反逆児」。なにか松山の片田舎で教師が一人奮闘している姿が浮かび上がるような言葉である。私は一人、笑ってしまった。 パンフレットの購入理由が、自分で分からずにいたわけだが、吹き替え同様「一旦他者を通す」という行為が、どうやらキモである。 2005年8月27日(土) 晴れ/くもり 哀しみの記
チ○毛に物語はない。辿り着いたのはこの言葉だった。いや待て。今いい話しするから。
もののけを扱った漫画「もっけ」は、もののけが見える姉と、憑かれやすい妹の話だ。 幾度も読み返して、自分がこの話しに特異な共感を抱く理由を探ったのだが、つまりそれが、チ○毛であると気が付いた。まぁ聞け。 私の発育は早かった。 そう、多感な小学生の高学年に、おかげで私は他人に理解されないという貴重な体験をすることができた。まぁ、プールの着替えと修学旅行の入浴が、その憂鬱なこと。鬼のようにいじられるんだから小学生は容赦ない。 つまりそういった「他人と共通しない体験」が姉妹の特殊な能力との共通項となって、感動を生み出していると思うのである。 問題は、様々な事件解決に役立つ能力を持つ主人公姉妹は「もっけ」という物語になりえるが、チ○毛はチ○毛だけに、何の物語にも生み出さないということだ。哀しみの記。 もっけ=熊倉隆敏著。講談社アフタヌーンコミック。 2005年8月28日(日) 晴れ/くもり 世界は時々、くるんと変わる
家に帰ってTシャツを脱ぐ時、「今、きかえている」と時々思うのは、実は着替えると書いて「きかえる」と読むということを結構最近まで知らなかったからだ。
それまで僕は「きがえる」という読み方以外を知らずにいたわけで、「きかえる」という音は相当新鮮だった。なんだか着替えるという行為自体が、すっきりした気がして、以来僕は、専ら「きかえて」いる。 同じような例を出すと、常夏の島を「ココナツの島」だとばかり思い込んでいた時期があった。幸いなことに、これはまだ小さい頃の話しだ。 親父と話していて、何かの拍子に「ココナツの島」が出て大笑いされた。その後、「常夏の島」について教えてもらった。幼い僕は多分、「ココナツ」だろうが「常夏」だろうが構うものかと思っていた気がするが、今思い返してみると、失われた「ココナツの島」の間抜けな楽園性は、かなり惜しい気がする。 2005年8月29日(月) 晴れ じすいずじすい
最近、自分で飯を作っている。
お金が浮くというのが最大の理由なのだが、立案、材料調達、調理、撤収という一連の流れをセルフプロデュースできるということは、実はかなり面白いんだから世話はない。 しかし愕然としたのは、スーパーで買い物をしている時のことだった。 指先を頬に当て、逆の指先を、頬に当てた側の手の肘に当ててみて欲しい。そこにはまぎれもなく、今日のおかずを何にするか悩んでいるおばちゃんが出現するはずだ。おばちゃんは悩む。特売のお肉にするか、それとも昨日残ったじゃがいもを使ってカレーを作るか・・・。おばちゃんは悩んでいる。 スーパーの売り場で自分がこのポーズを決めていることに気が付いた時、その驚きは相当だった。まさか自分が。という、犯罪でもおかしたかのような気分が、一瞬駆け巡る。 何か生物学的な理由があるな。と、あらぬ方向に想像飛びながら、作ったのは肉じゃが。 2005年8月31日(水) くもり 秋
主と自転車。思えば、当然の組み合わせだったわけです。何故今まで気付かなかったのかと、まずそこを責めなければなりますまい。
我が住まい一帯の主、蛙の為五郎(命名)は、道路の全面アスファルト化という苦難を乗り越え、元気に、そしてちょっぴり不気味に己が生を謳歌しておりましたことは、以前お話ししたかと存じます。また、卑小私めが、調子に浮かれて自転車を乗り回していることも、やはりご報告申し上げている次第。 して、今日。やはり浮かれて、というより少々ヤケ気味で自転車を飛ばしていた私めは、家前の小道に結構な速度で乗り込んだわけでございます。しかしむべなるかな。そこに鎮座ましましていたのは、主、為五郎でございました。憐れ為五郎、一巻の終わり・・・。 かと思ったら為の奴、タイヤすり抜けたんだってマジで!見たもん。作ってないって。轢いた!って思って止まったら、ゲコって鳴いてのそのそ去っていったんだから・・・。 |