2007年1月5日(金) 晴れ
明けました。おめでとうございます。
 本日買ったCDは以下の通りだ。クラムボンライブアルバム「3Peace」、たま「いなくていい人」、たま「汽車には誰も乗っていない」、たま「ゆめみているよ」、たま「しょぼたま2」。お気づきの事かと思うが、たまをいささか買い過ぎている気がする。たま合計が九千百六十五円だ。
 一つは、もしかしたらたまの音源が手に入りにくくなるかもしれないという危惧がある。言ってしまえばマイナーなバンドだ。もう解散もしている。店頭からCDが消えていってしまっても不思議はない。今のうちに買っておかなくてはという気持ちが、確かにある。
 一方で、たまを欲してもいる。慌しいクリスマス(他人の結婚式の二次会を仕切っていた)から、慌しい正月へと流れ込んだ。やっと一区切りついた時に、じゃぁ何が聞きたいと問われれば、たまが浮かんだ。
 「いなくていいひと」を聞きつつ、今年もよろしくお願いします。

2007年1月6日(土) 晴れ
お見送り
 袖口が、一升瓶の端に引っかかった。瓶はゆっくりと倒れていく。下に置いてあった陶製のコップが割れた。
 アイルランド土産のそのコップには、アイルランドの典型的な田舎の町並みが、ラフな水彩画のようなタッチで描かれている。パブがあり、靴屋と思しき看板を出している店があり、石造りの建物が道沿いに並んでいる。それが途中から、ばっさり二つに分かれてしまった。
 割れた瞬間、アラン島の断崖絶壁やその断崖絶壁に行こうとして朝靄の中で囲まれた牛の群れ、ゴールウェイの酒場でおっさんがやった民謡の独唱や、ギネスビールを思い出した。割れて初めて、結構気に入っていたんだなと気が付いた。もう元には戻るまい。
 あきらめて破片をビニール袋に入れ、捨てた。色々なことを思い出しながら、無意識に割れ口を指でなぞり、親指の腹が少し切れた。しばらく血が滲む。

2007年1月8日(月) 晴れ
体験
 自分の中で、「ライブ盤」に対する見方の変革が起きている。クラムボンのせいだ。
 先日買ったクラムボンのライブアルバム「3Peace」に、やられっ放しになっている。出てくるみんな、ノリノリだ。聞いてる方は、もっとノリノリだ。
 ライブの音源は音が悪い。演奏が失敗する。歌詞だってよく分からない。明確に意識はしていなかったが、そんな思いがあった。何となく、きちんとレコーディングされた音源の下に見ていた。んなわきゃない。
 ライブ盤はライブ盤、きちんと盤はきちんと盤、それぞれ別の物だ。楽しみ方も別物なわけだ。例えて言えばそれは、カヌーのパドルのフェザーとアンフェザーに似ている。独我論と唯物論に似ている。犬と戯れるムツゴロウさんと、チンパンジーと戯れるムツゴロウさんの違いに似ている。進化によって生物が多様化するのに似ている。
 やいのやいのやいのやいやい。

2007年1月9日(火) 晴れ
突発的小旅行
 年齢を間違えていた。高校時代の仲間との新年会で、指摘され気が付く。時報を聞くつもりで警察に電話をかけたこともあるしこの位は日常茶飯事だ。と自分に言い聞かす。
 一歳多く数えていたので、実年齢を知った時は一瞬、相当得した気分になった。ちょっと考えれば分かるが、実際には得も何もないわけで、阿呆である。
 理由はある。最近、「この年齢までにはこれをしよう」というような考え方をすることが多かった。囚われていたと言ってもいい。色々妄想計画を立てていたわけだが、一言で期間が一年延びた。「得だ」と思ったのはそんなわけだ。
 しかし阿呆だ。自分の歳を間違えていたので一阿呆、得したと思ったので二阿呆だと数える。これ以上阿呆を重ねないよう、「自分の年齢を間違えるような奴には、ライフプランなぞ砂上の楼閣だ」と、性に合わない考えはしないでおこうと思う。

2007年1月11日(木) 晴れ
通低音
 最近の出来事の底には、一貫して流れるテーマがある。
 年末に行った忘年小旅行では、貸し別荘を使った。無事(?)最後の日を迎え、管理人のおっさんに鍵を引き渡す時がきた。「どうも世話になりました」「いえいえ、なにもお構いもしませんで。また来て下さい」そんなやり取りの後、おっさんがポツリと言った。「男の方ばかりだと寂しいでしょう」
 新年会で高校の仲間、四人が集まった。「daiの恋バナが聞きてぇ」と二十五回程言われた。念のために書いておくと、高校は男子校だ。
 その翌日にレイトショウの映画を見に行った。その高校の友人とだ。
 つい昨日は、某有名神社へのお参りも兼ねて、突発的観光ツアーとなった。ソフトクリームなど舐めつつ、詣でた。男二人でだ。
 最近の出来事の底には、一貫して流れるテーマがある。テーマがある。

2007年1月12日(金) 晴れ
まずは日本語から
 電話で話しをしている時、歩き回っている。昔からの癖で、止められない。
 中学生の時などは、平気で二時間位電話をしていた。可哀想なのは両親で、夜中二時間もぶつぶつ部屋の中を歩き回っている息子を聞くのは、一体どんな気分だったのか。
 おかげ様で無事成長したわけだが、両親とは別の場所で寝起きしている現在、迷惑を被っているのは当然ご近所の人だ。通報されてもおかしくない気がする。
 というのも友人の中に数人、突然外国人になる輩がいるからだ。もちろん、国籍を変えるのが趣味だとかいう話しではない。話している途中で、突然韓国語(あるいは中国語、フランス語等々)っぽいしゃべり方になるということだ。当然、こっちだって韓国語っぽくしゃべりたくなる。結果、夜道をフラフラ行ったり来たりしながらしゃべっているバイリンガルが出現するわけだ。N○VAにスカウトされたらどうしよう、とも心配している。

2007年1月14日(日) 晴れ
 「カラマーゾフの兄弟」がやっと下巻に到達した。俄然面白くなってきている。読んでも読んでも疑問に思ってしまうのは、作者ドストエフスキーは、実はふざけているのではないかということだ。ヘルツェンシトゥーベ先生のせいだ。
 ヘルツェンシトゥーベ先生は、物語の本筋とは(今のところ)ほとんど関係がない。にも関わらず割と名前だけポンポン出てくるのは、舞台となる町に、どうやら医者が彼一人しかいないためだ。登場人物が医者にかかるとなると、必ず彼の名前が出てくる。そして患者は悉く治らない。
 ヘルツェンシトゥーベ先生は分からないと首を振る。おろおろする。挙句、下巻においてもう一人医者が登場した途端、それまで歩けなかった登場人物が突然歩き出したりする。ひど過ぎる。当然、彼のファンになった。
 ヘルツェンシトゥーベ先生が一体この先どうなるか、本筋そっちのけで、夜も眠れない。

2007年1月16日(火) 晴れ
情念論
 勉強欲が、少し出てきた。お手軽に新書の二三冊でも買って、読んでみようかと思う。
 きっかけは、『本の雑誌』のホームページに連載されていた脳に関する座談会だ。これが滅法面白かった。最近発展著しい脳関係の問題について、ゲームのクリエイターが毎回一冊の本を叩き台に論議している。クオリアだぁ、赤いものを見るとはどういうことかだぁ、昔から興味のあった方面の話題が満載で、「やっと時代がオレに追いついて来たな」という感慨で胸が一杯だ。いっぺん豆腐の角に頭をぶつけてこようとも思っている。
 こっち方面の話しを始めると、どうしても明後日の方に逝ってしまう自分がいる。『精神』を問題にするなら独我論に行き着くしかないと思うからだ。脳を物質的に分析していくなら、まだまだ発展や発見はあるはずだが、『精神』が出てきた途端それはもう、あってしまうものと二兆五万回唱えるしか・・・。
 イエー!!勉強しよ勉強。まずはそこから。

2007年1月18日(木) 晴れ
念のため。『地震予知システムの必要性を認めない』という趣旨では、もちろんない。また、阪神大震災の犠牲者の方のご冥福をお祈りする。
 一月十七日付読売新聞『編集手帳』が杜撰だ。一カシオペイア好きとして見過ごせず、思わず筆を取る。余計なお世話ですまん。
 ミヒャエル・エンデ著『モモ』にカシオペイアという亀が登場する。三十分先までの未来を予知する能力を持っている。編集手帳ではその予知能力と阪神大震災を結びつけ「空想の産物と知りながら(中略)未来が読めるなら、どれだけの命が救われただろうかと」と書く。気持ちは良く分かるが、この言葉はイタダケない。安易だと思う。『モモ』という物語の根底を損なう可能性すら含んでいる。
 カシオペイアの予知は絶対だ。予知した事象は必ず起こる。震災を予知したら、それは必ず実現する。「じゃぁその予知に意味はあるの?」その問いに対するパラドキシカルな象徴として、カシオペイアは存在する。人間に取って、「有意」とはどういうことなのか。
 未来が分かるカシオペイアが未来を変えられるなら、モモは必要がなくなってしまう。

2007年1月20日(土) くもり
ヴェローゾ
 アントニオ・C・ジョビン作、ボサノヴァの代表曲である所の「イパネマの娘」だが、「イパネマ」って何だ。
 ずっとエロい言葉だと思っていた。白い砂浜に青い海、華やかなパラソルの下に寝そべるのは、肌もあらわな「イパネマ」の娘だ。
 そんなイメージを友人二人に伝えたのは、酒を呑んでいる最中だった。一人の友人はこんな反応だった。「俺は山岳地帯だな、南米の」随分な違いだ。しかし言われてみればそんな気もしてくる。樹木も育たないような、乾燥した山岳地帯で、民族衣装を着て歩く「イパネマ」の娘という心象の風景だ。
 だが、さらにショッキングな言葉が、最後の一人の口から飛び出してきた。「僕は高湿地帯かなぁ」高湿地帯、高湿地帯とは何処なのか。「カエルとか・・・」カエル?
 そこではもはや、想像不能な娘が生み出されようとしていた。「イパネマ」の世界は広い。豊か過ぎる。

2007年1月21日(日) くもり
裁判傍聴
 裁判所の傍聴席に座りながら、類型ということについて考える。
 一件目は痴漢だった。被告は四十五歳、男、独身、スーパーの店員、前科二犯、冴えない。正直に書く。入廷して三秒で有罪だと思った。判決は懲役六ヶ月、執行猶予三年だ。
 二件目は覚醒剤の所持と使用だ。被告は四十代前半、主婦、パートの仕事あり、前科無し、髪を茶髪に染めている。家庭内のストレスで三年前から覚醒剤の使用を始めている。判決は懲役一年六ヶ月、執行猶予は三年だ。
 小説でもドラマでもない。現実だというのが重い。だが、事実だけを列記していくと、どんどん「あり得そうな話し」に思えてくる。
 自分を類型に当て嵌めてみる。容疑は痴漢だ。入廷してきたのは、ヒゲ面眼鏡野郎、前科はないが、夜な夜な怪しいホームページを更新している。有罪だ。あり得過ぎる。
 人は類型で考える仕組みを持っている。持ってしまっている。

2007年1月25日(木) 晴れ
おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。
 注)以下の文章は、宮沢賢治著「ビジテリアン大祭」のネタバレを起こす可能性があります。

 思い浮かぶままに書く。
 宮沢賢治の物語が好きだ。ミーハーだ。でも好きだ。「やまなし」、「シグナルとシグナレス」その辺が好きだが「ビジテリアン大祭」が次に続いたりする。
 「ビジテリアン大祭」をご存知だろうか。「私」が、ある島で行われるビジテリアン(ベジタリアン)の行事に出席するという話しだ。内容のことはとやかく言うまい。すごいのは終わり方だ。
 物語の最後で、「私」はぼんやりし始める。その直後「ぼんやりしてきたので、私の幻想は壊れました。後はみなさんが勝手に考えてください」かなんか言って、突如話しは終わってしまう。
 もう飽きちゃったんじゃないのかと推測する。「金返せ」と叫んで、その幻想とやらにポップコーンでも投げ付けたくなる言葉だ。それがいい。
 いいんだ。

2007年1月26日(金) くもり
決心
 映画「それでもボクはやっていない」を見た。監督は「Shall we dance」の周防正行だ。痴漢冤罪事件を扱っている。
 劇中、嫌疑をかけられた主人公徹平(加瀬亮)の部屋が捜索され、参考物件としてエロDVDやエロ雑誌が押収される。おいおいマジかよと思う。マジらしい。パンフレットによれば「実際よく行われること」だという。
 当然徹平は「男なら当たり前だ」と反論する。これに対する女弁護士須藤(瀬戸朝香)の反応が秀逸だ。「そう、男にはみんな動機があるの」正確ではないが、こう言い放つ。
 ところで官能小説を書いた。相当偏った内容だ。公開してみようと思う。数少ない女友達や、あるいは男の友人も失くすかもしれない。以後痴漢で捕まったりしたら、目も当てられない。でもやる。この物語は自分の中であってしまっているからだ。もちろん、現実と混同などしていないと本人は思っている。まぁ御託はいいや。好きな人は読んで下さい。

2007年1月27日(土) 晴れ
論理学
 姪(一歳五ヶ月)はよく他人の真似をする。恐ろしい事に気が付いた。
 姪と車に乗っている時、音楽を流していた。膝を叩いてリズムを取りながら運転をしていたのだが、姪も膝を叩いてノリノリになり始める。思い返してみれば、車の運転中に音楽を流して膝を叩くのは、親父の見真似だ。つまりこの行為は一族伝来のものなわけだ。
 ならば「暇な時に舌の上に泡を作り、息を吹いて飛ばそうとする」のも一族伝来なのだ。
 どうもおかしいとは思っていた。こんな阿呆なことをどうしてやってしまうのか、自分でも不思議だった。しかも泡は絶対に飛ばないし。これは幼い時の、誰かの真似だったんだ。謎は解けた。やった。
 多分遡れば江戸時代、田んぼを耕しながら舌に泡を乗せていたご先祖様もいたのだろう。あるいはマンモスだって追い回していたかもしれない。
 悠久の時に思い馳せる。舌の上には泡だ。

2007年1月29日(月) くもり
読了
 傍聴に行った裁判所では、ドストエフスキー著「カラマーゾフの兄弟」を読んでいた。
 ヘルツェンシトゥーベ先生が、最後にいい味を出した。この先生のファンなのだ。先生にはそれまで良い所がなかった。医者で、本人はがんばっているが、藪だ。酷い描写になると、それまで先生が診ていて立てなかった登場人物が、別の医師に代わった途端、スタスタ歩き出したりする。涙なしには語れない。
 そんな先生が見せ場を持っていくのは、裁判の証言台でだった。なかなか重要な役どころで、冬、自転車で走った後の缶コーヒーのように、心からあったかくなる証言をするのだが、内容の方はここで無粋に紹介するより実際に読んで頂いた方がいいと思う。。
 読んでみて分かったのだが、「カラマーゾフの兄弟」は冤罪事件を扱った物語でもある。一つだけ言えるのは、裁判所で読むべきではないなということだ。ページを閉じて目を上げれば、そこもやはり裁判所の中だ。

2007年1月29日(月) くもり晴れ
あんごら
 さっきから、「モヘヤ」って何だったかと考えている。最近聞いた言葉だったはずだが、思い出せない。
 吉田戦車の名前が、脈絡なく浮かんでいる。
 漫画家吉田戦車の面白過ぎるエッセイ「吉田自転車」「吉田電車」「吉田観覧車」三部作を読んだのは、いずれも比較的最近だ。その中の言葉だろうか。だが、いくら頭の中で検索をしてみても、それらしい記憶に行き当たらない。彼のギャグ漫画における「異常性」は、この「日常性」があってのものか、と刮目させられる面白エッセイ「吉田〜車」シリーズ好評発売中!と何のしがらみもないが宣伝してみても、事態は一向に進展しない。
 うすた京介の名前も頭を掠める。ギャグ漫画に関係のある言葉だろうか。確かに「ボスケテ」に代表される「名称不可能な事態をあえて名称する」というギャグパターンに鑑みて、あり得ない語ではないが、どうも違う。
 今は、「モヘヤ」が謎だ。

2007年1月30日(火) 晴れ
書くか
 いつだって書くには最適な時だ。何故なら「あの時こそ書けばよかった」という後悔が多々あるからだ。
 以前、時が止まる少女の話を書こうした。どっかで聞いたことがあるが、それは置く。
 一人の少女が時が止まってしまう奇病にかかる。それに気付く少年がいる。ある時を境に少女の時は永遠に止まってしまう、ということが分かる。冬、日溜りの公園のベンチで、少女は永遠へと旅立つ。だが、横にいる少年には、少女の永遠は一瞬だ(分かりづらいだろうか?)。一瞬後、永遠から帰ってくる少女に向かって、少年は何を言おうか考える。
 筋立ては以上だが、今となると核になる「気持ち」がすっ飛んでいる。一人で永遠を過ごす少女の気持ちが、さっぱり分からない。
 過去から未来へ行儀良く「流れる」時間というものは、今の自分にはあってしまうものなのであるからして、今書きたいものを書くしかあるまい。何の話しだ。




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