2008年4月1日Tue. 晴れ
受動
起床後、約三時間が経つ。気が付けばるんるんな気分になっている。
金曜日は、仮想ゴルフの出来るバーで呑み、一人だけ一ホール目でOBを五連発した。ゲームを楽しむ輪から早々に脱落し、いじける。土曜日は友人宅で呑み、何だか知らないが、その場にいない別の友人に対して突然怒り出した。後で思い返して、ありゃ悪かったと落ち込む。日曜日は、前日の二日酔いで予定を全てキャンセルして家で吐きまくる。予定を組んでくれた友人に悪いわ、阿呆のような呑み方しか出来ない自分はやっぱり阿呆だわで、腐る。月曜日は小さな送別会があり、三人で呑んだ。送られる人の人生経験話しを聞き、己と比べて精神が暗黒だ。良い要素など一つもない。
なのにこの楽しさは何なのか。一つ歌でも歌うかという気分だ。本気で病気を疑う。
あってしまう心の厄介さを思いつつ、まぁ楽しいので良しとする。
2008年4月4日Fri. 晴れ
考えなし
「『ポ』と『ボ』じゃ、大違いですよね」と、隣りの席の女の子が聞いていてくる。
二十歳を越えたばかりの女の子と、二人で仕事をしていた。内容はデータのチェックだ。紙に書かれた文章とパソコン上のデータを比べる。基本的には、書かれている文字が正確に一致していなければならないが、原文に誤りがあるかもしれないので、多少厄介だ。
今回の場合は、前後の文脈から、原文通りでOKだと判断する。専門用語だったので『ポ』だか『ボ』だか分からなかったのだろう。
「そうだぜ。『ポ』と『ボ』じゃ大違いだぜ。そういう細かいとこ、いっぱいあるから気を付けてね」と先輩風を吹かせる。しかしその後、何の気無しに「例えばポ」ッキーと言いかけて、愕然となった。ポッキーの『ポ』を『ボ』に変えたら、どんな事態に陥ると思っているのか。己の阿呆さ加減が身に染む。
「ポ……−ルマッカトニーがボールだったら」と慌てて言い直す。苦しい軌道修正だ。
2008年4月7日Mon. 晴れ
違い
塾の講師がビルに入っている教室の一角に囲炉裏を切り魚を焼き始めた、という話しを、年若い友人から聞く。「もー臭いんですよー」と憤慨する横顔を眺めつつ感じる、違和感の正体が分からない。
確かに、講師がおかしい事は言を俟たない。ビルの中に囲炉裏を切るな、という話しだ。一体何が彼をそうさせるのかが分からない。おまけに魚まで焼いている。よく追い出されないなと感心することしかりだ。
だが、違和感の原因は、むしろ友人だ。
テナントビルの一室に作られた炉端で次々に焼き上げられる魚という異常事態を前にして、嘆くのは「臭い」という事ばかりだ。何か他に言うべき事があるように思える。だが、友人に取ってこの話しの中心はあくまで「臭い」だ。何故だ。「物を燃やしたら、においが出る」その認識の有無の問題かと考える。友人に取って、その臭いは驚きだったのか。
物は、燃やせば、臭い。
2008年4月14日(月) 晴れ
野生味
仕事をしていると、グルッポーと鳴いた。間違いなく奴がいる。
鳴き声は、少しだけ端が開いていた、壁全面のガラス窓の向こうから聞こえていた。場所はビルの九階だ。窓のすぐ内側にはパーティションがあるため、姿は隠れて見えない。しかし、直接聞く鳴き声は妙に生々しい。
パーティションに接した机で仕事をしている。グルッポーまでの距離は一メートルもないはずだ。だが向こうは、飛び立つでもない。こちらには全く気が付いていないわけだ。
普段公園などで近付いてくる奴らも、グルッポーと鳴いてはいる。だがそれはあくまで「餌、くれ」という営業用の鳴きだ。今回の場合は、誰もいないと思い込んでいる奴が、(恐らく)一匹で勝手に鳴いている。つまりは独り言だ。そう聞くと、心なしか安心の響きがある。弛緩気味な気がする。
何故だか「この野郎!」と思う。「どう驚かせてくれよう」と画策する。この、鳩めが。
2008年4月16日(水) 晴れ
映画後
ビルの九階にある店舗で買い物をしていた。夜も遅かったので、ビルの中で開いているお店はそこだけだ。当然、帰りのエレベーターは混んでいた。並ぶのも面倒で、階段で降りる。途中で後ろの足音に気付く。
足音はとんとんとんと、一定のリズムを崩さない。案外、早い。「7F」の時はまだ遠くに聞こえていたのが、「6F」では、すぐ上の階になっていた。
階段に、他に人影はない。電灯の白い光がのっぺりとした壁を照らしている。踊り場には、閉め切られた店舗の入り口があるだけだ。何だか、足を速めたくなった。
だがもしここで速度を上げ、後ろの足音までも速まったらどうしようと考える。何かを決定付けてしまいそうな気がして、出来ない。
「5F」の踊り場を過ぎる時、視界の片隅に階段を下りてくる男の影が見えた。照明の逆光で顔は見えない。背後から、足音はとんとんと近付いてくる。もう、手が届く。
2008年4月21日(月) 晴れ
倒木
走っていると、目に羽虫が入った。
ごろごろと目蓋の裏のあちこちを動き回り、痛い。しかし外では取り除く術がなく、ランニングを終えてから家の鏡を覗き込んだ。 とんだ災難だが、虫の方からしてみたって、災厄以外の何物でもない。
長い冬を終えやっと孵化し、温もった空気の中で飛び回っていると突然、超巨大物体の、粘膜状の部分に捕らえられる。脱出しようにも水分の粘性で飛び立てない。おまけに、上からはシャッター状の物が何度も降りてくる。しかも捕らえられた粘膜状の部分が、ぎょろぎょろ動く。そうこうしている内に呼吸が出来ない。あちこちへ移動させられつつ、虫の意識は薄れていく。嫌な死に方だ。
あるいは、第三者から見たらどうなるか。
走っていた男が突然悶え始める。踊っているようにも見えるが、しきりに顔の辺りに手をやる。だが、しばらくしてまた何事もなかったように走り出すわけで、まぁ春ですな。
2008年4月22日(火) 晴れ
立ち読み
十三年ゼミと十七年ゼミの話しは、何度聞いても哀しい。
北米には十三年ゼミと十七年ゼミという二種類の蝉がいて、それぞれ名前と同じ周期で羽化をする。何故十三と十七なのかは、以下三つの理由に集約される。一つ、蝉の最大寿命は十八年程度だ。二つ、氷河期において、蝉はなるべく長く(十年以上は)地中で暮らす必要があった。三つ、十三と十七は素数だ。
長い長い氷河期があり、寒さを凌ぐため蝉達はその生のほとんどを地中で暮らした。しかし、蝉だって子孫を残したい。恋をしたい。そのためには地上に出なければならない。しかも、なるべく大勢一緒の方が子孫を残し易い。地中にいる周期が違う蝉同士が子供を残すと、その子の周期は不安定になる。仲間外れになり、一人ぼっちで成虫になる羽目に陥る。結果として、二百二十一年に一度しか交わらない、十三と十七の蝉だけが生き残る。
氷河期が終わっても、遺伝的に決定された周期は、もう元には戻らない。哀しい話しだ。
2008年4月30日(水) 晴れ
カヌー後日
四人の男に囲まれて、美女は黙々とランチを食べている。
美女は、四人用のテーブルに一人で着いている。テーブルは陽光降り注ぐ屋外の広場にある。男達は、ある者は白い板状の物体を持ち、ある者は黒いレンズの付いた機械を抱え、ある者はノートを片手に、それぞれ、だが一様に美女を凝視している。美女はまるで男達など存在しないかのように、オムライスをスプーンで掬い、さも美味そうといった様で口に運ぶ。
広場の周りには屋台がいくつかあって、美女はさっきまで、その内の一軒の店主に向かってマイクを向けていた。そこで売っていたのが、今、美女が食べているオムライスだ。
美女は食べる。オムライスを、食べる。四人の、むくつけき男達に一挙一動を見守られながら、食べる。最高に不味い食事に、違いあるまい。
テレビに出るのも大変だという話しだ。
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