2008年5月1日(木) 晴れ
直裁
満員電車の中から、女が五人、口々に溜息を吐きながら出て来た。
五人の女は、いずれも大学生のようだった。
一人目の女は、デニム地のジャケットにチェックのスカートという出立で、殺し屋が人を殺した後のように「フゥ」と言いながら駅のホームに降り立った。二人目の女は、最近テレビでよく見る「ちょっと年増で美人なのにお笑いをやっている女性」にそっくりだった。「ホー」と言いながら出て来た。三人目の女は、二人目の女にそっくりだった。顔から着ている物までそっくりだった。溜息まで、そっくりだった。四人目は美女だった。ジーンズにティシャツというラフな装いで、それ故にスタイルのよさと小作りな顔の整い方が際立っていた。ほとんど聞こえない、吐息のような溜息だった。五人目はメイドだった。ふりふりの付いた装飾過剰な服を着ていた。「ふーう」とわざとのような溜息を吐いた。
そしてその日座った公衆便所の便座は、力を込めるとずるずるとずれ始めた。
2008年5月9日(金) 晴れ
心象スケッチ
例えば、水田の中を飛ぶ一匹の蚊を想像する。何の因果か血を吸う獲物も少ない(そういえば蚊は、爬虫類やら両生類やらの血を吸うのだろうか?)稲の中に迷い込んでしまった。
季節は秋だ。稲の先には金色の穂が実っている。しかし蚊にとって、稲穂には意味がない。蚊は米を食べないし、血液を持つ動物は辺りに見当たらない。蚊は腹を減らしている。
やがて蚊は力尽きる。実る稲穂の真ん中で、蚊は飢餓のために生を終える。
しばらくすると、蚊の亡骸がある葉の上を巨大な影が覆う。影は鎌を持ち、次々に稲を刈り取り始める。影は稲穂を精製し、白米にし、食べる。蚊がそれまで餌を求めて飛び回っていたその周りの環境を、影は丸ごと食べる。つまり蚊は、食料に取り囲まれて餓死をしていたわけだ。
高層ビル街をてくてく歩きつつ、腹が空いた時に見た、幻想だ。
2008年5月11日(日) 雨/晴れ
この街を流れる川は〜♪
川沿いを歩く。歌いながらだ。文句あるかと言いたい。
夕闇も迫っていた。辺りは薄暗く、人気はない。川は実家の近所の小川で、たいした大きさではない。川に沿って続く小道からは柵と堤防で遮られ、川原に下りるのは困難だ。だから別に、夏、水遊びをしただとか、釣りに興じただとかいったような、これといった思い出もない。
しかしまぁ、変わらずに流れている。時たま散歩したり、小学校の通学路の途中だったの小石を放り込んだりしたままの姿で、変わらずにある。
午前中まで振っていた雨のせいで、空には雲が多い。しかし、晴れ間もちらほらだ。冬の名残か風も冷たく、小道脇の公園に遊ぶ親子連れの姿もない。なので歌った。
ぼへーごへーと騒音を撒き散らしつつ、そして誰かに聞かれてやしないかと若干びくびくしつつ、歩いた。気持ちが良いの一言だ。
2008年5月12日(月) くもり
戦車風?
ぺろぺろぺろ。
「何故!?何故あのバッターはチームの皆に腋の下を舐められるの!?」
「ま、まさか・・・・・・。『あのバッターは腋が甘い』とかいうつもりなのか!!」
「そんな、そんなことって・・・・・・」
「いや、それだけじゃないぞ!よく見てみろ!」
「舐める時の顔が、甘さで笑いつつ、でも少ししかめっ面になっている!?」
「そうだ。あれは『関西人が納豆の臭いを嗅ぐ時の顔』と同じだ!!」
「ということはまさか・・・・・・」
「ああ。これだけは考えたくなかったが、『腋が甘い』のではなく、『腋臭(わきが)甘い』だったんだ!!」
「ひょえーーーーーーい」
というようなことを考えつつ、風呂に入っている。
皆さんは、どうですか?ひょえーーい。
2008年5月17日(土) くもり
・・・・・・適当?
「アウッ!」と叫んでいるおっさんを前にして、記憶の不確かさを思う。脳の仕組みを思う。「こんなんで、ゴーストをバスター出来たのか?」そう思う。
映画「ゴーストバスターズ」の主題歌を、数十年振りに聴いている。まだ幼いと言っていい頃に聴いた曲だ。記憶の中では、ギターがぎゅいんぎゅいん鳴り、ドラムはガンガン叩かれ、ヴォーカルはシャウトしていた。だが実際は、ベースが跳ね、主旋律は電子音で、変なおっさんが「隣の家が変だったら誰に電話する?うふふ」と歌っていた。今にもマイケルが出てきそうだ。モータウンだ。
幼い頃は音楽と言えば「ロック」だったのだろう。「モータウン」などという言葉は無く、全て「ロック」だった。だから、記憶までが「ギターぎゅんぎゅん」になったわけだ。
無闇に女の子が下着になるPVを見ながら「貴様、そんなことで魑魅魍魎から街を守れるのか!」と憤りつつ、考える。
2008年5月18日(日) 晴れ
カテゴライズ
「こいつ、変態だから」十数年来の友人を、そう紹介された。その瞬間、何か新たな感動が全身に染み渡っていった。「なるほど、そうか。電話に出る時『中国人』になるのも、フットサルに初めて来た女の子に向かって『その汗舐めたい』と言うのも、全て変態だったからなのか」それは十三年の付き合いにして初めて訪れた、深い理解だった。
友人に連れられてドロケーに参加した。「いい大人が十人も二十人も集まって、何のドロケーぞ」そう突っ込む向きもあろうが、今回は置く。問題は、「十数年来の友人を、改めて紹介された」ことだ。
会にはたくさんの人がいて、やわくちゃだった。誰と誰がどういう関係か、始めの内は分からない。で、友人を紹介された。
「そいつのことなら、散々知ってらぁ」よく分からない嫉妬を感じたのも一瞬のこと、そんなものは吹っ飛び、感動が訪れる。
変態か。今後は、そのカテゴライズだ。
2008年5月22日(木) 晴れ
恥
男は走っていた。夜の街を流れる光の帯に変え、走っていた。男の腹には重い炭水化物の塊りが詰まっていた。塊りは絶えず男を苛み、隙あらば口から外界へ脱出しようと足掻く。通常ならば足を止めるべき状態だ。だが男は、止まるわけにはいかなかった。男の置かれた状況が、それを許さなかった。男はついさっき、ラーメン屋でメンマつけ麺を汁まで食べ切り、支払いの段になって鞄の中に財布が入っていないことに気が付いたばかりだった。男は、財布を取りに走っていた。
はーい、どうも馬鹿です。食い物屋で食うだけ食っといて、財布がないと言い訳する。そんなベタなことをやる奴が、今時いるとお思いですか。いるんですねぇ。しかもこの続きが、『男が辿り着いた仕事場は、無情にもすでに鍵を掛けられていた』となるんですねぇ。もうこのままだと皿洗い一直線、危うしオレ!というところで、紙面も尽きました。この話しはここまでということで・・・・・・。
2008年5月26日(月) 晴れ
ハンマー投げと言えばアヌシュ
ファーストフード店で注文の列に並んでいると、聞いてはいけない言葉が耳に飛び込んできた。「広いアヌスって・・・・・・」ぎょっとして声の方を見ると、高校生らしい二人組み男子が、にこやかに話し合っている。
背もたれに体重を預け足を組んだ、ちょっと要潤クンに似た子は、Yシャツの胸元にちらりと見える素肌がとってもセクシー、で、もう一方の子はちょっと生真面目そうで、膝に手なんか置いちゃって、ふんふんなんて頷く姿がちょー可愛いーのぉ。で、二人の話しをよく聞いたら「ローマ帝国が・・・・・・」なんて言ってて、ローマ帝国っていえばあれよね、それまでのギリシア文化では大っぴらだった少年愛が、厳格なキリスト教支配で秘密になっちゃって、つまり禁断の愛って事でしょ、キャー!もーどうしよー!!キャー!!
で、オチは「トラヤヌス帝」を聞き間違えたってことで、割りに美味い珈琲を飲みつつ、もう死のうかと考える。アヌス。
2008年5月29日(木) 晴れ
コンタクト
トイレの鏡に映った己の姿を見てふと考えた。「上手の手からも水が漏れる」というが、普通手から水は漏れない。
うがいをしようと手に水を溜め、口に持っていこうとしている途中だった。濡れた手から滴ることはあれど、手の平にたたえた水は一向に減る気配もない。ぴたりと閉じられた指の間からは、一滴の水も零れない。「すわ!もしや上手を通り越して達人の域か!?」と一瞬思うも、そんなわけはない。
昔の人は水受けが余程下手だったとも考えられるが、それもどうか。やはり結論としては、「上手の意味が違う」に落ち着きそうだ。
「戦上手の手からも水は漏れる」か。
時は戦国、今しがた野戦の突撃を命じた武将の手には水だ。「殿!いかがなされました!?」「いかん!水が漏れている!!」って、そんなわけはないわな。
「床上手か!?」と気付くも、深くは追求せずに終わる。
2008年5月30日(金) 晴れ
ほんとに浅ましい
「でも、サンチョのケット上げ」そう言って笑い合いたい。「そうだよね、あれはケット上げだよ」そう言い合いたい。無理だ。
サンチョとは物語「ドン・キホーテ」の登場人物、サンチョ・パンサに他ならない。では「ケット上げ」とは何か。これは毛布(ケット)に乗せられて空中に放り上げられる事だ。つまり「サンチョのケット上げ」を要約すれば、「物語『ドン・キホーテ』において、サンチョは不本意にも毛布に乗せられて何度も空中高く放り上げられる羽目に陥る」という事になる。
これを、「でも、そんなの関係ねぇ」のように、共有したいという欲望がある。「ドン・キホーテ読んだ?あの場面面白かったよね」という暗黙の了解を、誰かと取り合いたい。もっと言えば、「この読書離れとか叫ばれている時代において、ドン・キホーテを読んでるなんて、俺達凄くね?」と言いたい。
浅ましさを書く。浅ましい限りだ。
2008年5月31日(土) 晴れ
パスが強い人
フットサルの記憶は瞬間だ。例えば今日の試合のスルーパスの情景はこうだ。振り抜いた左足の先にボールはある。間の約十五メートルには、相手ディフェンダー足が差し出されている。しかし届いてはいない。ボールはゴール前の空きスペース向かって低い弾道で飛んでいて、味方がそこに走り込んでいる。
ゼノンの古来より、西洋哲学は運動についてパラドクスを抱えている。ある地点からある地点に行くには、その間の距離を移動しなければならない。しかしその距離を二つに分割し、さらに二つに分け・・・・・・と考えていくと、無限の点を通過しなければならないことになる。結果「移動」は不可能だという結論に陥る。つまりだ。この無限に分割された点というのが、フットサルの瞬間の記憶であって、今日のスルーパスが通らなかったのは哲学のせいで、というより、移動は不可能なのだからまだスルーパスは続いているわけで・・・・・・、毛虫のお化けが毛虫のお化けがぁ!
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