2011年3月1日(火) くもり/雨
空目押し
「小林ダンススクール」は決して少林寺秘伝の舞踊を教える場所ではない。何度も自分に言い聞かす。何度も、何度もだ。
駅から目的地へ向かう道は、繁華街を通る道だった。何とはなしにビルのテナント看板なぞ眺めながら歩いていると、「小林ダンススクール」という文字が目に飛び込んで来る。
一瞬だが、ガラス張りのダンススタジオで、丸坊主の男達が「ハッ!ハッ!ハッ!ハッハッ!」と気合を発しながら拳を突き出す様がまざまざと浮かぶ。慌てて「少林」ではなく「小林」だと己の脳に言い聞かせた。
帰り道に、同じ場所を通る。済ませた所用の事などを考えていると、不意打ちのように「小林ダンススクール」だ。二度目の映像では、男達の数が確実に増えている。
違う。小林ダンススクールでは、少林寺の踊りは教えていないはずだ。後、「小林ヨガスタジオ」だって、少林寺の体操は教えていない。いないんだ。
2011年3月6日(日) 晴れ
記憶
別に昨日、サッカーをやってヘディングをしたりなどはしていない。ただ友人と呑んで酔っ払っていただけだ。だが、額が痛い。この謎について考えている。大いなる謎だ。
昨日の記憶といえば、ボルダリングだ。以前より約束していた友人数名を、初めてのボルダリングに連れて行った。そこでは主に教えるだけで大して登ってはいないし、もちろん額を打ったりはしていない。
その後、酒を呑んだ。
優雅に寿司などつまみつつ、三千七百円でビールを呑む。二十三時に場所を変え「温泉行きてぇ」などとほざきつつ呑んだのはウィスキーだ。終電間際で別れ、電車で帰宅した。ドア付近で手すりに寄りかかりながら帰った。その間も、途中かくんと膝が落ち「ゴン」という音とともに周りの人がクスクス笑ったのをはっきり覚えている位記憶も鮮明だし、額が痛い理由がまるで分からない。
分からないんだ。
2011年3月20日(日) 晴れ/くもり
倫理三部作その1。カント。
ケーニヒスベルクのカント翁は「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」と語る。ではボルダリングの時にTシャツの裾から覗く背中に関して、如何なる格率を持って臨むべきか、それが、それこそが、今問題だ。
ボルダリングで、妙齢の女性がジムの壁を登っているのを後ろで見ていた。ホールド間の距離が遠く、女性は精一杯手を伸ばす。Tシャツが上がり、背中の素肌が見える。そこで感じる罪悪感は、何だ。
別に、決して、やましい気持ちで見ていたわけではない。他人がそのルートをどうやって登るのか参考とするため、純粋に、向上心から、女性の登攀を見ていた。ところが素肌が見えた途端、心に罪悪感が生まれる。「やましい気持ちで見てない」が言い訳としか聞こえなくなる。果たして格率が立法の原理となるよう「猥褻罪です」と自首するべきか。
違うはずだ。違うはずなんだ。
ボルダリング=命綱を着けず低い高さを登るクライミング
2011年3月28日(月) 晴れ
後、「口ひげ頭と瓶」も良かった
美術館で愚か者を発見した。その愚か振りを伝えたくてしょうがなく、困る。
シュルレアリスムに関する展示だった。「解剖台の上のミシンと傘の出会いのように美しい」といった言葉で語られる「過剰なまでに現実」的な作品がシュルレアリスムと呼ばれる、らしい。今回の展示にも、不可思議とも言うべき絵画や彫刻が並んでいた。疑問符を二十三個程浮かべつついくつもの作品を眺めていると、ふいに変なものが目に入る。
頭に二匹の鳥っぽい何かをのせ口を半開きにして笑ってる人間の胸像だ。見た瞬間これはとても馴染み深い何かだと直感し、題名を見て腑に落ちた。作品名は「愚か者」だった。
浮かんだんだと思う。溶ける魚だとかグニャグニャな時計を描いていたのに、ある日ふと浮かんだのは愚か者だ。そして作った。完成品を見て作者は思ったに違いない。「うむ、これぞ愚か者だ」。浮かんじゃったんだからしょうがないと思う。素晴らしい作品だ。
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